笑い

お題「気になる番組」

テレビを見る時間は昔と比べると明らかに減ってはいるのだが、オードリーの出ている番組を見ることが多い。

僕は元々ラジオが結構好きで特に芸人がやる深夜ラジオをよく聞いていて、その中でオードリーがやっているオールナイトニッポンが一番のお気に入りだった。

そのラジオを聞くようになってからオードリーという芸人そのものがすごく好きになった。その結果オードリーの出るテレビ番組についても追って視聴するようになっていった。

最近で言うとあちこちオードリー、オードリーさんぜひ会ってほしい人がいるんです、日向坂で会いましょう、ヒルナンデスの水曜日など。あと若林単体だが、しくじり先生なんかも良く見ている。

オードリーが好きな理由は独特の考え方であったり、空気を崩さない細かなやり取りだったり、男子高校生のノリ感だったり色々あるのだが、攻撃性を外に出さないバランス感覚だと思う。

最近よくネットニュースになって炎上したりという人が多いが、その大体がある特定の層に対しての軽視だったり、怒りを買ったりというものだと思う。

そしてそう言う炎上を起こす視聴者層というのは今の世の中に違和感を持っていたり、変わらなきゃいけないという考えを持っていることが多いように感じられる。

そんな世の中に違和感を感じている人としてスタンスが近く、世の中に適応することに苦戦をしていたのが若林である。若林は世の中の違和感だったり、自分がとった行動が世の中にとって異常であったことにショックを受けたことなどをまとめてエッセイ本を出すほど世の中への迎合を悩んでいた。

そういう背景があるので、人の特徴なんかをいじるうえでその人がなるべく気分よくいじられるように、純粋なお笑いとして伝わるように極力嫌味な部分を排除したり、デフォルメしているのがすごく伝わるから見る側も不快にならないのだと思うし、番組の構造自体が下世話的だったり、嫌な部分を着くものでもフォローしてくれる安心感があるので落ち着いて見ていられる。

好きな番組どころか好きな芸人の話を長々書いてしまったが、僕は基本的に面白い番組はしょーもなくてもいいからただ面白いというだけがあればいいと思っているので、そういう部分に長けた芸人が出ている番組が好きなのです。

気分転換の話じゃなくなった

お題「気分転換」

気分転換はベタに散歩をすることが多い。

少し前までは、なるべく降りたことのない駅を何も調べずにおりて駅の周辺を1時間くらい散策していたりしていたのだが、最近はただ家の近くを20分~30分程度何となく歩くだけのものが多くなりつつある。

前者の散歩も楽しいには違いないのだが楽しみ方が違っていて、前者は何か面白いことはないかと探す意味合いが強くて、後者はただ考えたくないものごとを考えないようにするとかぼーっと歩いて頭を整理させたいというような時にすることが多い。

家の近くでの散歩が多くなったのは改めて考えると考えなくてはいけないことが増えたのもそうなのだが、友人と遊んだりというのが何となく憚られる状況が続いているからなのかもしれないと思った。

というのもあまり出歩いたり外でお酒を飲んだりというのが推奨されない昨今ではあまりくだらない話を人とする機会が極端に少なくなった。それに伴って何か例えば家にいた時に見た面白い動画であったり職場での出来事だったりも人に聴かせる前提として整理をしたり、考えたりということをしなくなってきたのだ。その延長でそもそもあまり人に聴かせる面白い話を求めるより自分が少しでも快適で暮らせるほうにシフトしてきたような気がする。

仮に今、友人からの誘いがあって飲み会をやるとなった時のことを想像すると本当に話すネタがない。「自宅待機中に何をしていた?」のようなことから始まり、仕事なんかの近況を少し話して、、、

それ以上の話の引き出しは何もないなと思ってしまった。また、それらの話も大して膨らむ感じが全然しない。

気分転換という話からいくらか逸れた気もするが、気分転換としての散歩も大事なのと人に話せるようなネタを見つける散歩どちらもバランスよくやっていきたいと思う。

 

嫌な夢

夢を見た。

学校の全校集会か何かで、おそらく保健委員になったであろう自分がみんなの前で結果報告と感謝をするという場面だった。

そこで僕は本?プリント?どちらかに直接書き込んだカンペを用意してきたのだが、みんなの前に立った瞬間にそのページがどこだったのかわからなくなり、ちょっと待ってもらうように伝えた。

そうすると途端に集会全体がざわざわとし始め僕がページを見つけて話し出した時には声が届かないほどの状態になってしまった。それでもなんとか声を張り上げて話すのだが、話すこと話すことの途中で茶々を入れられて話の主導権を握られてしまう。

そしてそれを収めて話そうと繰り返しているうちにもはや何を話そうとしていたかすらわからなくなってしまった。

なぜかわからないがこんな夢を見たのだが、こんなはらわたが煮えくり返るような気持で朝目覚めたのは初めてだと思うし、自分の中で一番経験したことのある嫌な気持ちを結集したような夢だったと思った。

特に自分の話そうとしたことに茶々が入るというのは本当によくあるのだ。それは実際の他人によるものもそうだし、「これを言ったらよく思われないかも」という自分自身のブレーキによるものもある。

率直な自分の気持ちを吐き出すことはリスクが高くて今のご時世難しいのかもしれないが、こんな針のむしろのような気持ちでいるのならいっそ吐き出して気持ちよく切られた方がましなのでは?とも思った。

それと同時にそんなときのために僕は今のブログを作ったのだとも思った。そしてまんまと今その経験を吐き出している。

人には本音を吐き出せる空間が必要だ。そしてそれはブログかもしれないし、友人との酒の席なのかもしれないし、ネットの掲示板やTwitterなど匿名性の高いSNSなのかもしれない。

ただ僕はこれについて発言として引っ張りだされて「こいつこんなこと言ってましたよ」と見世物にされることは精神的にかなりキツイと思う。

こういう本音はぎりぎり世の中の目に触れる場所で出さないとある程度発散されないし、かといって大衆の議論やら解釈でやり玉に挙げられるのはしんどい。そんなとてつもなく厄介で複雑な性質なものをうまく破棄できるためにはどうした良いのだろうか。

それこそ捨て方の煩雑なゴミを捨てるように専用のごみ袋としてそれとすぐわかるようなラベルを付けておくのはどうだろうか。例えばSNSで挙げるとすればハッシュタグとかをつけて"#破棄する言葉"とか、あとはゴミの回収みたいに時間を決めるのもいいかもしれない。朝6時から朝8時の間にみんな一斉に愚痴を吐き出して、8時ちょうどになった瞬間にその2時間の間発言された言葉をそのサイトの管理人が一括で削除するとか。たまに吐き出すの遅れて何人か8時1分とか2分とかにとてつもない罵詈雑言が残っちゃったりするのもそれはそれで可愛らしくて良いと思う。

周りのために言葉を使うのと自分の精神のために言葉を使うのは違う。それをごっちゃにされないようにこれは自分の言葉で今はそれを言わせてくださいという明確なターンというか線引きというか吐き出し口があった方がいいんだろうと思う。

違うものが同じに見える

優柔不断であること×ネガティブなメンタルはうまくいかないことが多い。

可能性でもあるはずの選択肢のどれもが良く思えないくなってしまって、どの選択肢を選んでも同じだと思えてしまうことがある。

 

こどものころは一日の大半は学校で決められた時間割通りすごして、家に帰れば宿題をして気が付いたら寝てしまってまた次の日の朝が始まるという生活をしている中で、そういう選択肢がたくさんあること、なりたいものになれる、やりたいことが選べる自由があることを希望だと思って生きていたのだけど、選択肢がなかったあの頃の方が楽しかったと振り返ることが多くなったし、仕事をするうえでもやることが決まってしまっていて、淡々とこなすものの方が楽でいいなと思ってしまうことが多く、選択肢がたくさんあって好きなようにやっていいが結果を出しなさいと言われた方がむしろ絶望に近い気持ちがわいてくる場合がすごくある。

 

そういうことが続くとどの選択肢も同じに見えたりして、それが行き過ぎると生きるのがいいか死ぬのがいいかという選択肢すら同じ気がして、しかも自力でそれを選択する力もないので外部からの力で死がやってくるのを待っているという状態になることもある。

 

選択肢が同じに見えることの一番の弊害は気持ちの上下がなくなることだと思う。どの選択肢も良くないように見えるのだから当然だが、気持ちの変動がなくなるとそれらの選択肢をぶっ壊すような怒りを基にした第三の選択肢が出てくることもなくなってしまう。

 

こういう場面というか精神状態に陥ったことは少なからずあるが、いまだになんでそういった状態から抜け出せたのかということに対しての明確な答えは正直なくて、運が良かったとしか言いようがない。

例えば仕事でボロボロになっていて一日一日をやり過ごすことしかできなかった時に、たまたまインフルエンザにかかった。その時に一日だけ休ませてもらうことができたのだが、仕事の連絡や指示は関係なくやってきて自宅でできる作業をほとんど休むこともできずにやっていた。その時に「病気の時にこれだけの業務をすることっておかしいことなのかも」と今の仕事を続けるという選択肢が良くないものなのかもしれないと思った。これまで自分が病気にかかったときのことを思い出してそれらと明らかに違う状況になっているということに気付いたことで怒りが出てきてここは退職した方がいいと思うことができた。

 

コロナウイルスが流行っている今言うのはどうかと思うのだが、今の自分があるのはその時たまたまインフルエンザの菌をもらって、それに対する耐性が低い状態だったという一切良いとは言い切れない偶然が重なったからだと思う。

 

最初の話に戻るが優柔不断×ネガティブは良い状態ではないが、それを脱する手段は色々な人の意見あると思うが、個人個人に適した方法があるかと言えば試してみなければわからないし、偶然的に脱することができるのを待つしかないかもしれない。

ただ、そういう状態が良くなくて、そういう状態に近づいているかどうかを判断が付くうちにしておくべきだとは思う。少なくとも生きることと死ぬことが同列に思えてきたらイエローカードを自分に出しておこう。

17年ぶりのクレヨンしんちゃん

お題「ゆっくり見たい映画」

映画館に見に行くことはすっかり減ってしまったのだが、何年か前の映画をネットフリックスやアマゾンプライムなんかで発掘してみるのは好きで、4~5年くらいに一度のペースで映画にどっぷりハマることがある。

前回ハマったときにはこれまでほとんどと言っていいほど見たことのなかったアベンジャーズシリーズを片っ端から見あさり、その流れでバックトゥザフューチャーなどの名作と呼ばれるSF洋画を見ていた。

それから約5年後ちょうど1か月ほど前からまた映画を見たい熱が増してきている。今回は前回と打って変わって子供向け映画「クレヨンしんちゃん」を見あさってしまっている。今回以前に最後に見たクレヨンしんちゃんシリーズは2003年公開の「栄光のヤキニクロード」になるので、実に17年ぶりのシリーズ視聴だ。

ちなみに映画クレヨンしんちゃんシリーズは1993年以降、毎年一本というペースで出ており、現在まで28本も公開されている。一本当たり約100分なので全部見るとなると単純計算で2800分。だいたい46時間以上はかかる。

さすがにすべて見るつもりはないが、大概の作品はアマゾンプライムで公開されているため、有料会員ならほぼ全部見ることができるため、今日見るものないなーと思っているとつい手を伸ばしたくなってしまう。

僕は何となく懐かしさで見ることにしたのだが、意外と見てみると大人でも割と楽しめる内容になっていたことに少し驚いた。基本的にはギャグ漫画なので、笑いとかギャグがありきで話も作られている。クレヨンしんちゃんシリーズのイメージとしては下ネタというイメージが強いと思うが、改めてみるとその大部分が言い間違いボケで、言い間違いネタといえば芸人で言うとサンドウィッチマンやナイツなどが良く使う手法であるし、下ネタというところに嫌悪感が特別無いようであれば大人になって見てもちゃんと面白い。

あと、カンフーボーイズという作品を見た時に思ったのだが、しっかり伏線を置いていることがあるのにも改めて気付いてすごいと思った。話の大筋は中華街を舞台に食べた人を狂暴化させるラーメンを出している悪の組織をカンフーを習うことでやっつけるという話で(大筋だけでもぶっ飛んでるような気もする)映画のラスト、正気を失ってしまった仲間を救うために(なぜか)ジェンカを踊るというシーンがあるのだが、映画冒頭を振り返ると、マサオ君の様子どうやらおかしいというきっかけでカンフーを習いに行くというくだりがあって、その話をしていたシーンが体育の授業でジェンカを覚えるというものだったりしている。

 

そんな感じで結構大人が見ても面白いので最近7本ほど視聴した。ながら見でも罪悪感もあまりなく、ちゃんと見ても面白いクレヨンしんちゃんシリーズ。だいぶ先は長いが長いからこそこれは永遠見続けてしまうやつだなとも思う。

食べる量が減った。

夏バテにしては早いし、金がそんなにないわけでもないのだが、コンビニやスーパーに行ったときに「これ食べたい!」と胃袋が僕に投げかけてくることが極端に少なくなった。かといって空腹にはなるのでとりあえずと適当に買うとなんとなく食べられる。

食欲は名前に欲と付いているだけあって食べたいという気持ちがあるもんだと思うのだが、食べたいという気持ちなく生きるためにとりあえず食べるというのは少しさもしい気持ちが出てきてしまった。

 

昔はとにかく嫌いなものが多かった。野菜は全般嫌いで、魚も生魚は食べないし、焼いたものや煮たものも食べはするが好きじゃなかった。でもそんな中で魚が急激に好きになったときがあったのだが、その時のやり方をすればまた食に対する興味が高まるんじゃないかと思った。

 

当時魚が好きになった経緯を話すと、小学生の低学年くらいのころに父親がおもむろに僕を車に乗せ、海釣り公園というところに連れて行ったことによる。その日は人でごった返すほどの釣り人がおり、その人達が傍らに置いている魚を生かしておくためのバケツはほとんど空っぽだったのを覚えている。

 

僕らも例にもれず全く釣れずに朝の10時に到着してから夕方の6時くらいまで粘ってやっと15センチにも満たない小アジが2匹釣れただけだった。それから家に帰るころには夜の8時になろうかという時間で僕にとっては少し眠たいくらいの時間だったのだが、せっかくなのでと小さなアジを一匹はから揚げにして、もう一匹は刺身にして食べた。その時のおいしさが僕には衝撃的で驚くほどおいしかったのだ。

 

この時の気持ちを何とかして再現できないかと思ったのが先週の金曜日だ。明日は運よく休みになっている。アジじゃなくてもなんでもいいから魚を釣ってその魚をさばいて食べたいと思う。そんなことを考えていたらすごく充実した生活のような気がしてきた。明日の僕が自分で釣った魚を食べられようが食べられまいがどちらでもいいのかもしれない。昔部活かなんかでよく言われた「やってみることに意味がある」本来こういうところで使うことなのかもしれない。

SNS

SNSを見る時間を意識的に減らしたらすごく楽になった。

特にTwitterのような自分がフォローした情報以外も流れてくるようなものはストレスになりやすかったので、気になることがない限りは1日に2回くらい流し見する程度にしている。

中にはもちろん面白い情報もあるのだが、結局身につくようなものはほとんどないし、それに乗じて大して関係ない便乗ツイートしている人を見て「なんだかなぁ」と思ってしまう。

 

SNSを見るのを控えようと思った理由はストレスがあっただけじゃなくてふとSNSを見ている自分が客観的にどう見えているかを想像したら情けない感じがしたからでもある。家でイスに座って何をするでもなく、スマホをひたすらに何分も、ひどい時は何時間も見ていてたまに画面をちょこちょこ指でなぞる様子はなんとも言えない嫌悪感があった。

 

ネットでの誹謗中傷が問題視されることも多いけれど、それを書いている人の姿を想像すると少し気持ちが楽になるかもしれない。スマホやパソコンの液晶を前かがみでのぞき込んで必死に画面をこすっている。

なんなら見ている側もおんなじだ。わざわざのぞき込んでみるようなもんでもない。

 

ただ本当にユーモアに富んだ面白い人もいるにはいる。ただそれを1人見つけるために100人くらいはつまらない人の言葉を見なくてはいけない。

それに大して自身の日常生活に大きな影響を与えるようなものはほぼない。

 

SNSは心の余裕があるときに面白いものが見つかればラッキーという気持ちの面での博打程度のものだと個人的には思う。博打で身を亡ぼすのも気をつけなくてはいけないけれどSNSで心を亡ぼさないことも同じくらい気を付けたい。