お笑い評論家になんかなりたくないのよ

こないだみたIPPONグランプリは大体全部面白かったのだが、忖度がどうのみたいな話が挙がっているのいるのをみてびっくりした。

タイトルの通りで僕はお笑いは面白がってなんぼという考えがあるのでそもそも面白いのかどうかという疑問符をもって見ること自体好きじゃない。

もう少し踏み込むと面白がり方というか面白いと思う捉え方を広げる努力で面白いと感じられるようになるのであればするべきだと思う。

別のジャンルで例えると、野球素人の人とかが野球観戦をする場合、結構な人が「〇〇の150km越えのストレートが見たい」とか「4番の〇〇のホームランが見たい」とかそういうところに注目するのではないだろうか。

それもめちゃくちゃすごいことだと思うし、実際見ると迫力は半端ない。ただ、すごいことだけど、それ以外の選手のプレーを何となく流し見してしまうのはもったいない。

なので観戦するにあたって戦術とか作戦についてちょっと調べてみたりとか、「この人は何が何でもつなげるバッティングをする」とかの知識があれば野球全体で見どころがめちゃくちゃ増えるし、ハマることはないまでも何もすることがない休日昼間なんかにテレビで野球をつけてそれとなく見ていられるくらいにはなってくる。

大喜利の話にもどると、結構キャラものというか個性派の人が面白いと言われているのをよく見たのだが、もちろんキャラを自分に降ろしたりとか、「どんな考え方してるの?」というようなとびぬけた発想を持っている人がすごいのは当たり前にあるのだが、定番のフレーズに大喜利のお題を当てはめたりする技法の中を「この答え方ありきたりだな」とみるんじゃなくてそういう技法があるのを何となくわかってそこから「この言葉を選んできたか」みたいなセンス部分で笑えれば単純に楽しいものが増える。

お笑いの話というより世の中の見方の話にもつながるかもしれないけど、せめてバラエティ・エンタメ番組くらいは意地でも面白いと思って楽しんで生きてかないと人生もしんどいだろう。

普通の人よりはお笑い番組を少しくらい多く見てる自信があるが、よっぽど嫌悪感がない限りは意地でも面白味を見つけて笑う。

そういうゆがんだ確証バイアスの使い方もある。

ただあったこととただ思ったこと

最近、家にいる時にふと地元のことを思い出した。僕の地元は比較的田舎で、自然が多く小学校のすぐそばに川が流れる大きな公園があって学校終わりはそこでよく遊んでいた。

そこには魚も多く、カメなんかもいたりしたのだが、その中で人面魚と呼ばれていた金色っぽいコイがいた。今思えばただ目立つコイというだけでそんな大して人面でもなかったのだが、そいつが泳いでいるのを見ることができたら今日は良い日だと勝手に思っていた。

あと、その公園にさらに隣接して結構大きい体育館があった。そこは中学校に上がったころに入った部活で大会があるたびにそこに通った。今でもいくつかの試合は印象に残っているので鮮明に思い出すことができて、あの時に今の僕がコーチについてあげることができればきっといいアドバイスをして、世界は変わっていたのだろうなと自分でもどうしようもないことだと思うことを考え、頭の中で公園周りを思い出を振り返りながら記憶の中で散歩をしていた。

ふと気が付いた時には、考え始めて一時間近く時間が経っていたのでとても驚いた。

それと同時にすごく充実した一時間を消費したという感覚もあって、人間その気になれば過去の記憶と想像力で自分自身をこんだけ楽しませることができるものなのかということに気付いた。

僕は自己分析は苦手だが、自分の過去を改めて探ること自体は好きだ。「あの頃はよかった」と過去に引きずられて生きることは決していいことではないかもしれないが、将来、未来の不安で窮屈な気持ちになってしまうくらいなら過去に自分を逃がしてやるのも時にはありかもしれない。

中学生時代の僕は、これを否定するんだろうけど、これが楽しいのだからしょうがないという気持ちもわからなくないのだ。

こういうことを考え始めると世の中の人に対する許容感が高まるから不思議だ。いわゆる町にいる目的もなく公園でフラフラしたり、ぶつぶつ独り言を言っていたりする、当時「あぶないおじさん」と悪気もなく噂していた人に対しても「まぁ色々あるんだろうな」とか「こういう気持ちだったのだろうか」とか思ってしまう。

僕は大学に出てから自分が楽しいと思えることの大事さに気が付けた人間なので、あの当時は周りの中でいかに浮かない行動をとるか、平均以上かつ目立たないところに入れるかということばかりを考えていた気がするが、あの時はあの時で必死でなおかつ楽しくもあったのだろう。

よく過去は美化される。肯定的にとらえやすいと言われるが、逆に美化されるのであれば、今自分がろくでもないことをしていたとしても、短期的には罪悪感を感じるかもしれないが、何年か経ってみればよい思い出になっているという予想もできる。そういう意味ではなんでもできる考え方もある。

僕は夜も少し遅い時間につかれた脳みそで久しぶりに書くブログを溜まり溜まった書きなぐりたい感情のまま取り留めもなく話が脈絡なく飛んだりしながら書いている。

昔流行ったくだらない前略プロフィールを思い出す。

その黒歴史も美化して、今書いている物も事もそのうち美化されるだろう。

頭の中の自分のルールだけでつながった連想ゲームが妥協もあるがとりあえず一本が終わった気がする。

何を伝えるでもなくただ浮かぶままに書いただけの文ですが、すっきりしました。

書くことに対するハードルを思いっきり下げてみるととても良い発散ができる。

ということが今日の教訓。また、書きます。

 

 

脳過労

すごく脳がぼーっとしてしまっている時間が増えた。

十中八九スマホの見過ぎが原因だろうと調べてみるとやはりそうらしい。

スマホから情報が絶え間なく大量に流れ続けることにより情報処理が追い付かなくなり、脳過労という現象が起きるようだ。

主に起きる不調というのは記憶力の低下や判断力の低下、認知機能の低下などが挙げられるらしく、おおむね自分の現状と一致している。

 

在宅での仕事が増えて、通勤時間が節約できたり、自分の時間の確保がしやすくなったことで、3食食事をとり、家でできる運動なども意識的にするようになったのでかえって健康的になったのかと思っていたのだが、圧倒的にスマホを見ている時間が増えたのだ。

 

スマホによる脳過労について調べた記事によるとデジタルデトックスと言ってスマホを触れない環境に自分を置いたり、食事時にはスマホを持ち込まないなどのルールを決めてスマホを触らないようにするのが良いらしい。

同じような症状の方は一緒に試そう。

速いおうち時間

おうち時間が長くなってあまりやることがないので、普段の休みの日に何をしていたか思い出してそれをヒントに家での過ごし方を考えていた。

 

思い返すと朝起きて15時くらいまでスマホYouTubeやらSNSやら見て、食糧買い出ししてまたスマホ見て、、、

 

外出自粛前と大して変わらん、、

 

スマホを見ていると本当に時間の流れが速い。全然意識がなく時間が過ぎてしまっていることが多々ある。

 

ただ、これはスマホに限らずそういう時間は少なからずある。仕事のある日なんかは朝起きてご飯食べて、シャワー浴びて、髪整えてとかしてるうちに2時間くらい意識なく経っていて「あと5分で電車くるじゃんっ!」というときなんかその最たるものだ。

 

そう考えると、スマホを開いたときの流れもだいたい一緒だ。

ご飯がTwitter、シャワーがYouTube、髪整えるのがインスタとか。そんな感じで置き換えられてるだけで無意識で必要ないルーティンが刻まれているんだと思う。

 

しかもそれがスマホの場合1回じゃない。朝起きてルーティンを終えてから、2~3時間後に全く同じルーティンにハマっていることがある。ルーティン一周が30分くらいだとしても5周くらいしてモーニングルーティンとナイトルーティンを合わせたら5時間弱は消費している。

 

さらにYouTubeなんかで1本面白い動画を見つけてしまったが最後、関連動画の沼にハマり+2時間は固いだろう。

 

。。そりゃ時間の流れも速い

 

色々なモーニングルーティンなんかの動画が流行る中で再生時間24時間のデイルーティンを挙げたらバズるのだろうか。ただ、そんな動画を下手したら撮れてしまうくらいスマホルーティンが生活に入りこみ始めている。

 

おうち時間の増えた今スマホルーティンを削っていきたい。

 

さりげなく出したけどスマホルーティンって良いワードだなぁ。

商標登録でもして使用料とれたら大金持ちになれるかな。

攻守交替

巣ごもり生活の有意義な使い方がいまいちつかめないでいる。また、外出できない息苦しさになれないでいる。

 

いろんなラジオやYouTubeなどから自宅での過ごし方についての話を聞くことができたので、影響を受けて試してみたりもしたが、夜一日を振り返るときに昨日とたいしてかわってないなと思ってしまう日も少なくない。

最近は一日一日の変化を感じるため、日記をつけてみたりもしている。

あとは本をちょっとずつ読んでいるのだが、巣ごもりように4月頭に購入した本が6冊中5冊も残っていて、岡本太郎著の「自分の中に毒を持て」という本はコロナ禍に読むには厳しく差し迫る言葉が多く、自分の中から湧き出た毒に食い殺されそうな気分になってしまった。

 

程よくポジティブでいながら自己研鑽するというのは難しい。とにかく面白そうなものをかき集めてやり過ごすので手一杯だなと感じる日々。

そろそろ巣ごもりの息苦しさにも慣れて一転攻勢楽しんで有意義さを見出していくターンだと思う。

自分の物事の捉え方を転換していくのが僕は楽だし、これまでもそうしてきた。

何かの役に立ちそうと思えればそれでいいし、実際に役に立たなくてもそれはそれでいい。

 

学生時代ならった言葉で批判的精神という言葉があったけれど、それは相手を糾弾するのではなくてなぜそうなるのか疑問に思うことで考えるきっかけになるという意味。

未だに病院やドラッグストアの開店前から並んでいる高齢者をただ批判するよりはなんでそんな行動をとるに至ったか想像して過ごす休みもそれなりに有意義だと思う。

 

久しぶりに自己発信をするので、感情とインプットがごちゃまぜになり、話が飛び飛びになってしまった。

アウトプットする練習もしていかないと、社会が戻ったときにリハビリが大変になるね。

新しくて面白いもの

このあいだ急に、昔はまっていた動画が見たくなり検索した。こういうことは時たまあるが、その動画を一度見るまで気持ちがその動画に行きっぱなしになってしまい他のことがもう全く手につかなくなってしまうことがある。

もう12~13年くらい前のものだったし著作権的にも心配になるようなものだったのだが、意外にも無事に残っていたので見てみた。

懐かしさもあり最初の方は面白かったのだが、5分くらいたったところでなんでこんな動画を楽しんでみていたんだろうという気持ちが少し出てきた。また、見続けていくうちに「この動画のこのシーンで腹を抱えて笑っていたなー!」ということも思い出せたが逆に「僕はこんなもので笑っていたのか」という気持ちにもなった。

 

見終わったところで充実感はあったのだが、その当時の気持ちで笑い転げられると期待していた割に、もう笑えなくなってしまった自分が残り、なんとも言えない微妙な感覚になってしまった。

 

なんだかムキになってしまったので、いくつかそれに関連した動画を見て回ることにした。

ちなみにその動画というのは今ではカテゴリーとして確立しているが、当時はドマイナーであったゲーム実況動画である。

最近はゲーム実況は見ていなかったが、当時は3万~4万再生行くようなものがあれば人気実況者と呼べるような雰囲気があった。しかし今や何十万再生というところまで行ってやっと一人前のような雰囲気があることを知り、だいぶ驚いてしまった。

 

話は戻るが、関連動画をいくつか見たり、調べたりしたのだが結局いまいち笑えるものはあまりなかった。

 

僕はそこでなんでこんなに楽しめない体になってしまったのか不思議だったのだが、よくよく考えると新しかったからなんだろうなと思うことにした。

 

当時ゲームはオンラインでつながるとかそういうものはなかったし、家でコツコツ進めてその成果を翌日の学校で発表し合うようなものだったので、知らない人がゲームをしているのを見てみんなで共有しているのがそもそも新しかったんだなと思う。

 

新しいものは面白いが面白くなくなるものでもある。今の自分にも楽しいと思えるものは何個かあるけれど新しくて楽しいもの。新しくないけど楽しいものどっちも持っておくのが人生の楽しみを失わないコツなのかとちょっと思った。

もったいない自分

最近自分もこうなりたいと思えるような憧れの人と呼べるような人がいなくなってきた。

 

というのも、このところ没頭できる趣味がないなと何となく感じていたのだが、これまでそういう状況に陥った時、決まって僕は子供のころハマっていたことや学生時代にやりたかったけどやれなかったことを引っ張りだして今の自分なりに改めて始めることで趣味を作りだしていた。

 

今回も同じように学生時代何にハマっていたっけなと考え始めるとアーティストや芸人でなんか良いなと思った人の考え方に迫れるように仕事の裏側に迫るような密着番組やその道の人達の対談番組などを見あさっていた時期があったことを思い出した。

 

僕はアーティストにも芸人にもなるつもりはなかったのだが、当時は本気でその人たちのような面白いネタを作れる思考回路が欲しかったり、心にしみるような歌詞を作れる脳になりたかったのだ。

 

もちろん今の僕にも新曲が出るという情報が入ると真っ先に聴きに走るようなアーティストがいるし、出演するネタ番組トーク番組を見る芸人もいるのだが、本当にああなりたい、究極のところで言えば「朝起きたら本人と入れ替わっていたら良いのにな」と思うような感覚にはもうならなくなってきた。

 

正直中学生くらいのころにハマっていたことを掘り起こして今でも楽しめるくらいの僕としては感覚的には10年前だろうが何だろうが大きく変わっていないという自負があったのだが、その点では明確に変わったように感じてしまった。

 

そこで今の自分がそれらの憧れていた人に自分がなりたいと素直に思えないのはなんでだろうとよくよく考えてみると、今の僕の日々の楽しみや生きる上で楽しいと思えるものは過去に憧れてきた多くの人の仕事のやりがいだったり、いろんな創作過程の思考の中から自分に合ったものをピックアップしてきたものだから、過去憧れてきた人に今からなれるとしてもどこか物足りないような気がしてきてしまうのだと思った。つまりは、今の自分がある程度自分で肯定できていて、どこかでやっと積み上げた今の自分がもったいないと思っているからなのだろう。こういう書き方をすると自分を過剰に肯定しているように見えてしまうかもしれないが、あなたの憧れる〇〇さんになれるが、今の自分はリセットされて戻れないという取引を持ち掛けられたら割と多数の人が今の自分の生活を続けるんじゃないかな。

 

だから、たまに「〇〇になりてー!」と言っている人を見ると、どうか「〇〇みたいになりてー!」と言えるようになってほしいと思ってしまう。その「みたいに」という部分に今の自分を作るすごく大事な意味が詰まっている気がするから。ただ、例外として「億万長者になりてー!」だけには全面的に同意だ。億万長者にはどう考えてもなりたい。