もったいない自分

最近自分もこうなりたいと思えるような憧れの人と呼べるような人がいなくなってきた。

 

というのも、このところ没頭できる趣味がないなと何となく感じていたのだが、これまでそういう状況に陥った時、決まって僕は子供のころハマっていたことや学生時代にやりたかったけどやれなかったことを引っ張りだして今の自分なりに改めて始めることで趣味を作りだしていた。

 

今回も同じように学生時代何にハマっていたっけなと考え始めるとアーティストや芸人でなんか良いなと思った人の考え方に迫れるように仕事の裏側に迫るような密着番組やその道の人達の対談番組などを見あさっていた時期があったことを思い出した。

 

僕はアーティストにも芸人にもなるつもりはなかったのだが、当時は本気でその人たちのような面白いネタを作れる思考回路が欲しかったり、心にしみるような歌詞を作れる脳になりたかったのだ。

 

もちろん今の僕にも新曲が出るという情報が入ると真っ先に聴きに走るようなアーティストがいるし、出演するネタ番組トーク番組を見る芸人もいるのだが、本当にああなりたい、究極のところで言えば「朝起きたら本人と入れ替わっていたら良いのにな」と思うような感覚にはもうならなくなってきた。

 

正直中学生くらいのころにハマっていたことを掘り起こして今でも楽しめるくらいの僕としては感覚的には10年前だろうが何だろうが大きく変わっていないという自負があったのだが、その点では明確に変わったように感じてしまった。

 

そこで今の自分がそれらの憧れていた人に自分がなりたいと素直に思えないのはなんでだろうとよくよく考えてみると、今の僕の日々の楽しみや生きる上で楽しいと思えるものは過去に憧れてきた多くの人の仕事のやりがいだったり、いろんな創作過程の思考の中から自分に合ったものをピックアップしてきたものだから、過去憧れてきた人に今からなれるとしてもどこか物足りないような気がしてきてしまうのだと思った。つまりは、今の自分がある程度自分で肯定できていて、どこかでやっと積み上げた今の自分がもったいないと思っているからなのだろう。こういう書き方をすると自分を過剰に肯定しているように見えてしまうかもしれないが、あなたの憧れる〇〇さんになれるが、今の自分はリセットされて戻れないという取引を持ち掛けられたら割と多数の人が今の自分の生活を続けるんじゃないかな。

 

だから、たまに「〇〇になりてー!」と言っている人を見ると、どうか「〇〇みたいになりてー!」と言えるようになってほしいと思ってしまう。その「みたいに」という部分に今の自分を作るすごく大事な意味が詰まっている気がするから。ただ、例外として「億万長者になりてー!」だけには全面的に同意だ。億万長者にはどう考えてもなりたい。