ユーモアがすべてだと思ってた。

僕は仕事というものそのものに対してぬぐい切れていない苦手意識がある。

僕が高校生くらいのころからだんだんと色々な個性に対して尊重しようという感じが強くなってきていた。

オタクはいじめの対象ではなくなり、LGBTに対しても寛容であるべきという活動がテレビなんかで見るようになっていた。

そんな中で個性的であることが価値であるという傾向も強くなってきていた。

前に読んだホリエモンの本にはよりレアな人材になる必要があって100万人に1人の人材になることを目標にするべきと書いてあった。(本の中ではそうなるための手法に焦点が当てられていたが)

そんな中で当時の僕はユーモアのある人間になろうと思った。僕はお笑いが好きで少なくとも周りにいる人よりはお笑いを見ていたし、お笑いに触れたいという意識も強いように感じたからだ。きっと社会に出ても話が面白いというのは強みだろうと考えたからだ。

そう考えながら社会人になった僕は一つの現実にぶつかる。

企業が求める個性は実用性の上に成り立つ個性であるということだ。

例えば特定のソフトを使ってデザインができる、事務作業に役立つ資格を持っている。とかそういう類のものを個性としている人と僕みたいな生活の延長線上で抜きんでようとしている人の間には評価の上でものすごく大きな差があった。

今のとなっては他の人にはどうしようもできないものを可能にする1の力の方が誰にでもある程度備わっている力を少し上げた5の力よりも価値が高いことはわかるのだが、どうにも府に落ちないところがあった。

それに、仕事を始めて一週間くらいにはユーモアではなく端的に表現することの方が評価が高いことも分かった。

僕は勝手に口が上手くて面白い営業マンが仕事を取ってきて、デザイナーたちがユーモアや個性的なものを作って売るというような世の中の半分くらいをユーモアが成り立たせているようなイメージを持っていたので、そこで仕事に対して持っていた興味や面白そうという気持ちのほとんどの要素が失われてしまった。

あのころ僕がテレビで見ていた個性を持つというのは社会的には多方面に及ぶものであったのかもしれないけれど、その世の中の動きは会社が実用的な人材を集めたいという気持ちによって微妙にねじ曲がった解釈を作ってしまったのかもしれないと思う。

僕は個性を持とうとした結果ただ少し変な人になっただけだったということになるが、ここであえて言うなら、この変を抱えて生きることもそれほど悪くはないと思っている。

僕のような勘違いを持った人は少ないのかもしれないが変になってしまったからには変を楽しむという生き方も持ってみてほしい。

そして何より自分以外が発する個性という言葉は信じないに越したことはない。