もしもの話について

生活していると言うべきか迷って結局言わなくて自宅まで持ち帰って必要だったのか改めて考えたり、かなり前のとこを思い出してあの時のあの言葉ってああいうことだったのかもなとふと考えだしたりしていることが多い。

要するにもしもの事を考えていることが多い。

たまに友人とお酒を飲んでいる時にそのもしものルートに進んでいたらどうなっていたかとかそういうことを考えてしまうという話をすることがある。

すると僕の友人はそういう話についてきてくれる人が多いのだが、正直そういう心の内側で回っている思考について話してくれる人だから気が合って友達になれたような気もしている。

そしてそういう話についてきてくれない人のことについて深く考えることを避けてきていた。

ただ、ここ数年くらいで内側の思考を変に回さなくてもよくなってきてもしもの話についてそれほど考えずに動ける領域が増えてきた。

それは自分の考えがある程度ダイレクトに行動に移せるようになってきたからというのもあるのだが、思いついた疑問だったり言おうと思ったことを言うことにためらいが少なくなってきたからというのが大きい。

最近そういう変化があってもしもの話についてきてくれない人はそういう心境だったのかと気が付く部分が増えてきたし、そうやって解消してきたのかと腑に落ちることがある。

例えば小学生のころなんかでも授業の終わりに「聞きたいことある人?」と聞かれてスッと手を挙げられる人が何人かいた。

それに対して僕はわからない部分がどれだけ明確に有っても手を挙げた子が質問して聞いてくれたらラッキーぐらいに思っていたし、聞かれなければ家に帰ってから自分で教科書から探し出すのが当たり前になっていた。

つまり、もしもの話を理解できない人というのははなからもしものルートなんてなくて「聞くべきだったら聞く。やるべきだと思ったらやる」という一本道でくだらない脇道なんかをすっとばしてきた人なんじゃないかと思うようになってきた。

実際そういう人の道を見つけた時のスピードはものすごい。

大学時代の知り合いにITの道に進むことを決めた知り合いがいたが、その子は大学卒業後1年足らずで個人で仕事をもらい、こなすようになっていた。

今の社会は失敗した人にやさしくないし、リスク管理だなんだという声も聞こえるのだけれど、結局そういうもしもの道を見ずに生きられる人間が僕はうらやましい。