ただあったこととただ思ったこと

最近、家にいる時にふと地元のことを思い出した。僕の地元は比較的田舎で、自然が多く小学校のすぐそばに川が流れる大きな公園があって学校終わりはそこでよく遊んでいた。

そこには魚も多く、カメなんかもいたりしたのだが、その中で人面魚と呼ばれていた金色っぽいコイがいた。今思えばただ目立つコイというだけでそんな大して人面でもなかったのだが、そいつが泳いでいるのを見ることができたら今日は良い日だと勝手に思っていた。

あと、その公園にさらに隣接して結構大きい体育館があった。そこは中学校に上がったころに入った部活で大会があるたびにそこに通った。今でもいくつかの試合は印象に残っているので鮮明に思い出すことができて、あの時に今の僕がコーチについてあげることができればきっといいアドバイスをして、世界は変わっていたのだろうなと自分でもどうしようもないことだと思うことを考え、頭の中で公園周りを思い出を振り返りながら記憶の中で散歩をしていた。

ふと気が付いた時には、考え始めて一時間近く時間が経っていたのでとても驚いた。

それと同時にすごく充実した一時間を消費したという感覚もあって、人間その気になれば過去の記憶と想像力で自分自身をこんだけ楽しませることができるものなのかということに気付いた。

僕は自己分析は苦手だが、自分の過去を改めて探ること自体は好きだ。「あの頃はよかった」と過去に引きずられて生きることは決していいことではないかもしれないが、将来、未来の不安で窮屈な気持ちになってしまうくらいなら過去に自分を逃がしてやるのも時にはありかもしれない。

中学生時代の僕は、これを否定するんだろうけど、これが楽しいのだからしょうがないという気持ちもわからなくないのだ。

こういうことを考え始めると世の中の人に対する許容感が高まるから不思議だ。いわゆる町にいる目的もなく公園でフラフラしたり、ぶつぶつ独り言を言っていたりする、当時「あぶないおじさん」と悪気もなく噂していた人に対しても「まぁ色々あるんだろうな」とか「こういう気持ちだったのだろうか」とか思ってしまう。

僕は大学に出てから自分が楽しいと思えることの大事さに気が付けた人間なので、あの当時は周りの中でいかに浮かない行動をとるか、平均以上かつ目立たないところに入れるかということばかりを考えていた気がするが、あの時はあの時で必死でなおかつ楽しくもあったのだろう。

よく過去は美化される。肯定的にとらえやすいと言われるが、逆に美化されるのであれば、今自分がろくでもないことをしていたとしても、短期的には罪悪感を感じるかもしれないが、何年か経ってみればよい思い出になっているという予想もできる。そういう意味ではなんでもできる考え方もある。

僕は夜も少し遅い時間につかれた脳みそで久しぶりに書くブログを溜まり溜まった書きなぐりたい感情のまま取り留めもなく話が脈絡なく飛んだりしながら書いている。

昔流行ったくだらない前略プロフィールを思い出す。

その黒歴史も美化して、今書いている物も事もそのうち美化されるだろう。

頭の中の自分のルールだけでつながった連想ゲームが妥協もあるがとりあえず一本が終わった気がする。

何を伝えるでもなくただ浮かぶままに書いただけの文ですが、すっきりしました。

書くことに対するハードルを思いっきり下げてみるととても良い発散ができる。

ということが今日の教訓。また、書きます。