私事

なんとなく思ったことですが、

正直・素直であることと言動に一貫性を持つことって両立するの難しくない?

と思いました。

ブログをちょこちょこ書いていますが、新しくこんなことについて書いてみようと思って書き進めた時に「あれ?これこないだ書いたことと矛盾してない?」と思って書きやめたことが何回かありました。あと、だいぶ前に書いた自分の文章が今読み返すと「なになに?通ぶれる曲の見つけ方?はぁ?通ぶってどうすんねん!?」みたいなことが多々あります。

 

でも多分当時は「本気でこれを書かねば!」とか「これは心にとめておかねば!」とか素直な気持ちだったと思うんです。

 

最近読んだ本で自分の変化に気づいて、昔の自分が見たらダセェなと思うけれどもそのままで発信していく方が良いのではという旨の話を読みました。

 

個人的な感想ですが「自分を貫き通して大成功して見返してやりました。」などの自己啓発本によくみられる成功体験よりも沁みるものがありました。

 

過去の自分が描いていた自分像に近づけようと生きるなかで、完璧にはなれなかったり、自分の意識外で変わっていく自分のあり方を無理やりに縛りつけるのも違うのかなと思います。

 

僕はこれまでの生き方を道に例えるなら、不発弾が大量に落ちているであろう道を恐る恐る処理しながら進んできたというイメージがあります。

 

生来心配性なので普通に義務教育から就職という流れの中でおそらく爆発するとみられる心配に一個ずつ目印を立て踏まないように生きてきました。

 

最近その心配型不発弾の半分以上が自分蒔いたものだとわかるようになってきました。

それは自分が自分と言う形を保つためのものだったのですが、このところはその不発弾を蒔く手を止めるための闘いをする段階にきているのかなと思います。

 

自分を貫けるのか?貫けないのか?

貫かないことを恐れないこと。

厳しい現実から一時離脱する裏技。

帰る

こないだある出張仕事があり、仕事終わりに自宅に帰ろうとしたら終電を逃した。

 

僕は電車で通勤しているが一駅だけの乗り換えをするところがある。

ちょうどその乗り換え地点。自宅の一駅手前で電車がなくなってしまった。

 

そういうときはタクシーでも拾って帰るのだが、その日はなぜか投げやりな気分だったので歩いて帰ることにした。

 

かなり暗い帰り道を長い時間をかけて歩くのは相当に久しぶりだった。

夜中にじっくり歩いていると頭の中で色々な思考が勝手に始まる。

・明日の休みの一番有意義な使い方は何なのか。

・自分に今以上の価値を持たせるには何を勉強するべきなのか。

・そもそも自分の価値とは何で決まるのか。

・組織の中で生きることがなぜしんどいのか。

・それが仮に管理されることによるのなら管理されないで生きるにはどうしたらいいのか。

そんなことを誰もいないことをいいことにぶつぶつと独り言にしながら歩いて帰っていたのだが、結局仕事で疲弊して眠気も極限に達している状態でその答えにたどり着ける感じもなく、自宅につくころには肩が凝っていたのか体が動かしたくなり、ひたすらにスムーズなバッティングスイングを追求するという遊びを始めていた。

 

それでも普段自分を客観視した社会的地位とか、今後の展望とかと向き合うことが極端に苦手な僕にとっては貴重な自己分析だと感じた。

 

30分近く歩いて自宅にたどり着いたのだが、その間での収穫は肘を意識しすぎず腕で振るようにするとスムーズにスイングできるということと、自分が何ができるかを説得できるだけの材料を手に入れる活動をすべきだということくらいだった。

 

そのぐらいの収穫だったが、珍しく朝からみっちり働き、終電がなくなるほどまでに働いた仕事で得たものよりも価値がある気がした。

 

仕事での経験が銅だとすれば、帰宅中の思索は掘り出したばかりで磨かれていない金みたいに思えた。

 

その小汚く金なのかもわからない塊を懐に入れて、来週からも銅を採掘していくのかもしれないけど、それでもいいとも思えた。

もしもの話について

生活していると言うべきか迷って結局言わなくて自宅まで持ち帰って必要だったのか改めて考えたり、かなり前のとこを思い出してあの時のあの言葉ってああいうことだったのかもなとふと考えだしたりしていることが多い。

要するにもしもの事を考えていることが多い。

たまに友人とお酒を飲んでいる時にそのもしものルートに進んでいたらどうなっていたかとかそういうことを考えてしまうという話をすることがある。

すると僕の友人はそういう話についてきてくれる人が多いのだが、正直そういう心の内側で回っている思考について話してくれる人だから気が合って友達になれたような気もしている。

そしてそういう話についてきてくれない人のことについて深く考えることを避けてきていた。

ただ、ここ数年くらいで内側の思考を変に回さなくてもよくなってきてもしもの話についてそれほど考えずに動ける領域が増えてきた。

それは自分の考えがある程度ダイレクトに行動に移せるようになってきたからというのもあるのだが、思いついた疑問だったり言おうと思ったことを言うことにためらいが少なくなってきたからというのが大きい。

最近そういう変化があってもしもの話についてきてくれない人はそういう心境だったのかと気が付く部分が増えてきたし、そうやって解消してきたのかと腑に落ちることがある。

例えば小学生のころなんかでも授業の終わりに「聞きたいことある人?」と聞かれてスッと手を挙げられる人が何人かいた。

それに対して僕はわからない部分がどれだけ明確に有っても手を挙げた子が質問して聞いてくれたらラッキーぐらいに思っていたし、聞かれなければ家に帰ってから自分で教科書から探し出すのが当たり前になっていた。

つまり、もしもの話を理解できない人というのははなからもしものルートなんてなくて「聞くべきだったら聞く。やるべきだと思ったらやる」という一本道でくだらない脇道なんかをすっとばしてきた人なんじゃないかと思うようになってきた。

実際そういう人の道を見つけた時のスピードはものすごい。

大学時代の知り合いにITの道に進むことを決めた知り合いがいたが、その子は大学卒業後1年足らずで個人で仕事をもらい、こなすようになっていた。

今の社会は失敗した人にやさしくないし、リスク管理だなんだという声も聞こえるのだけれど、結局そういうもしもの道を見ずに生きられる人間が僕はうらやましい。

ネットと記憶のこと

記憶力には自信があるほうだった。

中学くらいまでの勉強はわりかし記憶力さえあればなんとかなることが多かったので

成績が良い方だった。

それがこのところになって色々忘れているなぁと思うことが多くなってきた。

人間は重要度の低いものだったり、ネガティブな記憶は消していくものだと何かで読んだのだが、どうでもよいはずのことを無性に思い出したくなる時がある。

小学生のころに潰れてしまった、よくおつかいを頼まれていたスーパー。

日曜日の夕方には翌日発売のジャンプが並べていた個人経営のコンビニ。

部活帰りに寄り道で通ってヤンキーによく乗り込まれたカラオケ店。

他にも色々あるが名前がすっぽり抜けてしまっている。

ふと気になって調べてみるのだが、ネットにもほとんど情報がなくなってしまっているし、ストリートビューを使って当時の場所を見てみると更地だったり、チェーン店になってしまっていたりする。

それだけ調べても出てこないとなんでも調べれば見つかる今の世の中では本当にそんなお店あったっけと自分に懐疑的になってしまう。

つくづく携帯、スマホ、ネットがなかった時代がいかに儚い時間だったのかと思い知らされるが、もしかしたら例えば10年先にネットよりも便利なネットみたいなものができてそっちに移行しますとかなったら、今よく通っているお店や場所も調べても見つけることができないようなことが起こるのだろうか。

それはなんかさみしいなぁと思う。せめてもの抵抗として好きな場所、何となくよく行くお店なんかは写真を撮っておきたいと思う。インスタ映えは考えない。

ユーモアがすべてだと思ってた。

僕は仕事というものそのものに対してぬぐい切れていない苦手意識がある。

僕が高校生くらいのころからだんだんと色々な個性に対して尊重しようという感じが強くなってきていた。

オタクはいじめの対象ではなくなり、LGBTに対しても寛容であるべきという活動がテレビなんかで見るようになっていた。

そんな中で個性的であることが価値であるという傾向も強くなってきていた。

前に読んだホリエモンの本にはよりレアな人材になる必要があって100万人に1人の人材になることを目標にするべきと書いてあった。(本の中ではそうなるための手法に焦点が当てられていたが)

そんな中で当時の僕はユーモアのある人間になろうと思った。僕はお笑いが好きで少なくとも周りにいる人よりはお笑いを見ていたし、お笑いに触れたいという意識も強いように感じたからだ。きっと社会に出ても話が面白いというのは強みだろうと考えたからだ。

そう考えながら社会人になった僕は一つの現実にぶつかる。

企業が求める個性は実用性の上に成り立つ個性であるということだ。

例えば特定のソフトを使ってデザインができる、事務作業に役立つ資格を持っている。とかそういう類のものを個性としている人と僕みたいな生活の延長線上で抜きんでようとしている人の間には評価の上でものすごく大きな差があった。

今のとなっては他の人にはどうしようもできないものを可能にする1の力の方が誰にでもある程度備わっている力を少し上げた5の力よりも価値が高いことはわかるのだが、どうにも府に落ちないところがあった。

それに、仕事を始めて一週間くらいにはユーモアではなく端的に表現することの方が評価が高いことも分かった。

僕は勝手に口が上手くて面白い営業マンが仕事を取ってきて、デザイナーたちがユーモアや個性的なものを作って売るというような世の中の半分くらいをユーモアが成り立たせているようなイメージを持っていたので、そこで仕事に対して持っていた興味や面白そうという気持ちのほとんどの要素が失われてしまった。

あのころ僕がテレビで見ていた個性を持つというのは社会的には多方面に及ぶものであったのかもしれないけれど、その世の中の動きは会社が実用的な人材を集めたいという気持ちによって微妙にねじ曲がった解釈を作ってしまったのかもしれないと思う。

僕は個性を持とうとした結果ただ少し変な人になっただけだったということになるが、ここであえて言うなら、この変を抱えて生きることもそれほど悪くはないと思っている。

僕のような勘違いを持った人は少ないのかもしれないが変になってしまったからには変を楽しむという生き方も持ってみてほしい。

そして何より自分以外が発する個性という言葉は信じないに越したことはない。

踏み込みの深さ

大学生のころなぜかよく知り合ってすぐくらいの友達に猫派か犬派か聞かれることがあった。

周りの多くは猫派でたまに犬派がいるような割合で、猫派と答えた人は大概どこが可愛い、どんな猫が好きかなどについて盛り上がっていたが、犬派と答えた人は「へー!そうなんだ!」から全然話が膨らまないというパターンをよく見てきた。

また、猫好きという人たちが集まった結果、猫という名の美少女キャラを操作するスマホゲームをひたすら遊ぶゲームサークルが出来上がったこともあった。そこまでくると猫をわざわざ絡めるのが少し面白かったりしてしまう。

なんにせよ、話のとっかかりにするには便利な言葉なんだろうなと思う。

その人と話をする場合には猫の話をすれば、その人も「前に猫好きって話したから興味を持ってくれたんだ」と唐突な話かけにも理由つけできるので、そこから本当に話したいことを話せばいいというような声をかける上での取っ手になる。

僕の場合は大概どっちも嫌いじゃないとか言って中途半端な取っ手をつけられていたのであまり扉を開いてもらう機会がなかったのだけれど。

 

ただ、ここでレアケースとして犬派?猫派?の質問をかけた時にその人が本当に犬か猫のどっちかが好きで語ろうとしてしまった場合はどうなるのか?

A「僕は猫派かな?」

B「ほんとに!僕も猫派なんだ!好きな猫とかいるの?」

A「僕はスコティッシュフォールドが好きで、特にハイランドフォールドが好きなんだよね。短毛種もメジャーで人気あるけど、やっぱりスージーからずっと受け継がれてるものだし特別というかさ。君はどういうのが好き?」

B「.....」

多分このあとA君はB君とそれほど仲良くならない。

僕もたまにあるのだけど日常会話や会話のとっかかりのつもりの話が本当に興味があって広げすぎてしまうというのは結構な確率で引かれる。

ただ、これもレアケースでさっきの例でB君も負けじとついてくることがある。

この場合はすごく気の合う友達になれることが多い。

さっきも書いたように僕は基本的にどっちもそれなりに好きというような答えをしていたけど、好きな音楽や映画の話とかを聞かれた時とかは広げて話してしまっていたので、それに付き合ってくれる人は大学を卒業してからもたまにあったり近況を報告しあったりする仲になった人が多い。

 

社会に出ると日常会話の回数が極端に増える。それも当たり障りのないものを極力選んで。仕事の上ではいいのかもしれないけど、こういう思い切った踏み込み方をすることが減ってきたと同時に親密と言えるような仲間を作るのが難しくなった。

今度試しに、会って3回目くらいの人に「最近暑いですね。」を「夏フェスの季節ですね」にすり替えて一歩大きく踏み込んでみようか。

怖いこと

とあるタレントのファンが他のタレントのファンと「○○は不快だから○○に出るな」のようなことでお互いに罵り合っている一連のSNSのやり取りを見かけた。

こういう場合、ニュースになったりすることもあるが、そのタレントにフォーカスするのは間違いだと思う。完全にファン同士、個人間の話だと思う。

タレントが行う行動一つ一つに対してそれを見ている人がいてそれによって良いという意見も悪いという意見も生まれる。そしてそれを加味してテレビなんかではキャスティングがされたりしていく。もちろん現場の評価もあるのだろうが。そしてこれはテレビというところが仕事に代わるだけで世の中の社会人大体にいえる。

ただ、例えば仕事やテレビの良しあしについて判断するのはその人の仕事の失敗によって不利益を被る可能性がある会社の人間で、それがあるから責任が成立する。

このあたりのタレントとファンの関係性は異なっていて、タレントで言えば不利益をこうむるのはスポンサーだったりテレビ制作でファンというのは直接的に結び付かない。

もちろんある程度、評価はされる要素だと思うが、あくまでタレントとしては要素の一つという位置づけになってしまう。

そうなるとファン同士が喧嘩をしているという情報はどっちが勝つにしろ、決着がつかないにしろ、それぞれのタレントをキャスティングするのをためらわせる懸念というくらいにしか伝わらないし、炎上系のニュースになることを極端に嫌う現在では危なそうだからと両方とも触れないようにしておこうという方向になることを想像してしまう。

そして、そういう行動に対して、「ほんとうに不快だったら見ないだろ。」と思ってしまう。そっちの方が視聴率という形で小さいかもしれないが、自分一人という単位での意見を評価する責任者に確実に届けられる手段だ。

そういう考えから想像するにはそれらの喧嘩をする人というのはそのタレントの活動には大したメリットは与えていなくて単純に自分の思った通りに世界が動いていかないことに怒っている人というように見えてしまう。

もしくは自分が思っていることがマジョリティであったり、正しいということを疑わずにいて、正しいことやマジョリティ意見を言っているのであれば、その他の意見は叩き潰していいという考えを持っている人に見える。そういう考え方があるのであれば、さも自分の意見が世の中の代表であるかのような形で発信したり、異なった意見にかみついたりすることも正直にできる。1+1=3という数式を見つけて「これ間違ってるよ」と指摘するときのような自信のある姿勢すら見えるときもある。

そういう人に対して僕は怖いという感情になる。

自分の意見がその人の思う正義と違ってたら叩き潰されてしまうと思ってしまうし、話す上で慎重にならざるを得ない。また、叩き潰す構えが見えた段階でそこに飛び込んで構えを解かせる自信がない。

そういう怖い部分に飛び込むコミュニケーションをしたいと思わないのとそれをして良い思い出になったためしがないので僕は基本距離を取る。そしてそういう怖い行動をとる人が意外と結構な大人だったりするし、それが日常茶飯事的にSNSで流れてくる。

世の中が怖いこと、怖い考えで溢れないことを願うばかりだ。

そしてそれに対する世の中の取り上げられ方は整理された方がいいのかもしれない。