怖いこと

とあるタレントのファンが他のタレントのファンと「○○は不快だから○○に出るな」のようなことでお互いに罵り合っている一連のSNSのやり取りを見かけた。

こういう場合、ニュースになったりすることもあるが、そのタレントにフォーカスするのは間違いだと思う。完全にファン同士、個人間の話だと思う。

タレントが行う行動一つ一つに対してそれを見ている人がいてそれによって良いという意見も悪いという意見も生まれる。そしてそれを加味してテレビなんかではキャスティングがされたりしていく。もちろん現場の評価もあるのだろうが。そしてこれはテレビというところが仕事に代わるだけで世の中の社会人大体にいえる。

ただ、例えば仕事やテレビの良しあしについて判断するのはその人の仕事の失敗によって不利益を被る可能性がある会社の人間で、それがあるから責任が成立する。

このあたりのタレントとファンの関係性は異なっていて、タレントで言えば不利益をこうむるのはスポンサーだったりテレビ制作でファンというのは直接的に結び付かない。

もちろんある程度、評価はされる要素だと思うが、あくまでタレントとしては要素の一つという位置づけになってしまう。

そうなるとファン同士が喧嘩をしているという情報はどっちが勝つにしろ、決着がつかないにしろ、それぞれのタレントをキャスティングするのをためらわせる懸念というくらいにしか伝わらないし、炎上系のニュースになることを極端に嫌う現在では危なそうだからと両方とも触れないようにしておこうという方向になることを想像してしまう。

そして、そういう行動に対して、「ほんとうに不快だったら見ないだろ。」と思ってしまう。そっちの方が視聴率という形で小さいかもしれないが、自分一人という単位での意見を評価する責任者に確実に届けられる手段だ。

そういう考えから想像するにはそれらの喧嘩をする人というのはそのタレントの活動には大したメリットは与えていなくて単純に自分の思った通りに世界が動いていかないことに怒っている人というように見えてしまう。

もしくは自分が思っていることがマジョリティであったり、正しいということを疑わずにいて、正しいことやマジョリティ意見を言っているのであれば、その他の意見は叩き潰していいという考えを持っている人に見える。そういう考え方があるのであれば、さも自分の意見が世の中の代表であるかのような形で発信したり、異なった意見にかみついたりすることも正直にできる。1+1=3という数式を見つけて「これ間違ってるよ」と指摘するときのような自信のある姿勢すら見えるときもある。

そういう人に対して僕は怖いという感情になる。

自分の意見がその人の思う正義と違ってたら叩き潰されてしまうと思ってしまうし、話す上で慎重にならざるを得ない。また、叩き潰す構えが見えた段階でそこに飛び込んで構えを解かせる自信がない。

そういう怖い部分に飛び込むコミュニケーションをしたいと思わないのとそれをして良い思い出になったためしがないので僕は基本距離を取る。そしてそういう怖い行動をとる人が意外と結構な大人だったりするし、それが日常茶飯事的にSNSで流れてくる。

世の中が怖いこと、怖い考えで溢れないことを願うばかりだ。

そしてそれに対する世の中の取り上げられ方は整理された方がいいのかもしれない。