違うものが同じに見える

優柔不断であること×ネガティブなメンタルはうまくいかないことが多い。

可能性でもあるはずの選択肢のどれもが良く思えないくなってしまって、どの選択肢を選んでも同じだと思えてしまうことがある。

 

こどものころは一日の大半は学校で決められた時間割通りすごして、家に帰れば宿題をして気が付いたら寝てしまってまた次の日の朝が始まるという生活をしている中で、そういう選択肢がたくさんあること、なりたいものになれる、やりたいことが選べる自由があることを希望だと思って生きていたのだけど、選択肢がなかったあの頃の方が楽しかったと振り返ることが多くなったし、仕事をするうえでもやることが決まってしまっていて、淡々とこなすものの方が楽でいいなと思ってしまうことが多く、選択肢がたくさんあって好きなようにやっていいが結果を出しなさいと言われた方がむしろ絶望に近い気持ちがわいてくる場合がすごくある。

 

そういうことが続くとどの選択肢も同じに見えたりして、それが行き過ぎると生きるのがいいか死ぬのがいいかという選択肢すら同じ気がして、しかも自力でそれを選択する力もないので外部からの力で死がやってくるのを待っているという状態になることもある。

 

選択肢が同じに見えることの一番の弊害は気持ちの上下がなくなることだと思う。どの選択肢も良くないように見えるのだから当然だが、気持ちの変動がなくなるとそれらの選択肢をぶっ壊すような怒りを基にした第三の選択肢が出てくることもなくなってしまう。

 

こういう場面というか精神状態に陥ったことは少なからずあるが、いまだになんでそういった状態から抜け出せたのかということに対しての明確な答えは正直なくて、運が良かったとしか言いようがない。

例えば仕事でボロボロになっていて一日一日をやり過ごすことしかできなかった時に、たまたまインフルエンザにかかった。その時に一日だけ休ませてもらうことができたのだが、仕事の連絡や指示は関係なくやってきて自宅でできる作業をほとんど休むこともできずにやっていた。その時に「病気の時にこれだけの業務をすることっておかしいことなのかも」と今の仕事を続けるという選択肢が良くないものなのかもしれないと思った。これまで自分が病気にかかったときのことを思い出してそれらと明らかに違う状況になっているということに気付いたことで怒りが出てきてここは退職した方がいいと思うことができた。

 

コロナウイルスが流行っている今言うのはどうかと思うのだが、今の自分があるのはその時たまたまインフルエンザの菌をもらって、それに対する耐性が低い状態だったという一切良いとは言い切れない偶然が重なったからだと思う。

 

最初の話に戻るが優柔不断×ネガティブは良い状態ではないが、それを脱する手段は色々な人の意見あると思うが、個人個人に適した方法があるかと言えば試してみなければわからないし、偶然的に脱することができるのを待つしかないかもしれない。

ただ、そういう状態が良くなくて、そういう状態に近づいているかどうかを判断が付くうちにしておくべきだとは思う。少なくとも生きることと死ぬことが同列に思えてきたらイエローカードを自分に出しておこう。